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「令和」大宰府と那の津の成り立ち。

久留米じいじです。


10日間の連休が始まった。
大宰府も、混雑になりそう。


お客さんが多いのは、大歓迎だが
ゆっくりと、見られると良いがね。


私「白村江の敗戦兵は、どこに消えた」
家人「どっさりと、帰ってきた」


私「那の津は、大騒ぎだった。
これを、治めたのも陰陽師ではないか」


家人「またもや、陰陽師の活躍かい」



白村江の戦いが敗戦で、どれくらいの
帰還兵や、百済からの遺民があったか。


手ががかりは、1000隻のうち
400隻が、炎上したという記録だけ。


残りの600隻に、帰還兵と百済遺民を
乗せて帰った。


帰還兵数万と、百済遺民1万ぐらい。
受け入れる、那の津は大騒ぎだった。


作戦会議も開かれた。
知恵を出すのは、陰陽師たち


那の津の浜だけでは、帰還の舟を受け
られない。
ほとんど同時に帰ってくる。


受け入れのために、港を整備した。
同時に、港の単位で神社を立てた。


帰った人をまとめ、防塁、港、神社の
仕事を与えた。


海沿い、東から


宗像大社
宮地岳神社(世界遺産
(新宮)と言う地名。
香椎宮
筥崎宮
櫛田神社
住吉神社
(天神)と言う地名。
警固神社
護国神社
愛宕神社


各神社に、陰陽師が張り付いた。
後に陰陽師は、神官になった。

那の津の作戦本部の会議に
百済の人たちが加わった。


決定の1。
唐軍+高句麗の軍は、すぐにくる
浜で戦いになる。


浜に防塁を作る。
各神社を、指揮所にする。
指揮は陰陽師他。


決定の2。
那の津(筑紫)を安全なところに移す。
大宰府に政庁を作る。
平城京を参考にする。


決定の3。
引っ越しの道路を作る。
兵の移動道路になる。


決定の4。
第2の防御線を作る。
水城の堰堤。
山頂に大野城、見張りの兵を置く。


決定の5。
帰還した人のうち、負傷兵は、大宰府
近く、二日市温泉で治療する。


歴史の古い温泉である。
大友家持はここで歌を作った。


以後、各工事の怪我人を治療する。

都から、百済の人を寄こせと指示が出た。
何千名かを、送った。


この方たちは、朝廷のアドバイザーになる。
後に、同化して高官になる。


あと、この人たちの、食料は海の魚と米。
魚は、目前の海で調達できた。


陸の米。
大宰府の山越に、筑豊の地域がある。
飯塚市田川市直方市の地域である。


昭和の初期には、石炭を産出していた。


この地域には、田の地区名が多い。
無数にある。
50カ所以上存在する。


関連した地名で、飯塚、穂波、稲築
嘉穂等。
古代の、米産出地域である。


輸送の道は、飯塚より米の山峠経由で
大宰府に。


現代風に、ライスロード。
名前の通り、米の山の名称もある。


ここが、大宰府那の津の人たちの
食料になった。


米の副産物でわらも、貴重だった。
縄や筵としての、需要が大きかった。


荷物をくくる。
帆を張る。
舟を舫う。


柱を結ぶ。
屋根材にする。
荷車を引っ張る。


筵は、袋状にして、米、土を入れる。


使用が終われば、燃料にする。
残りに灰は、肥料になる。


神社のしめ縄は、感謝の気持ち。
お供えは鯛と米。


私「何とか、まとまった」


家人「海沿いに、神社が並んでいる
海の神様が、一番偉かった」


私「大宰府の南、原田あたりも田が
多いよ」


家人「講談師の話としては、面白いよ」


私「苦労のかいがあって、ほめられた」




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