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続「令和」、「曲水の宴」=「梅花の宴」のようだ。

久留米じいじです。


「後だし作戦」を考えたのは、爺だけ
では、なかった。


世の中、そんなに甘くはないね。
地元、N新聞に寄稿されている。


「梅花の宴」と筑紫歌壇。
大宰府発見塾長 森弘子氏


さすが、ゆうことなしの記事。
参った、参った、である。


このままだと、爺がブログを書けないよ。
お叱り覚悟で、使わせてもらおう。


「梅花の宴」は730年、今の暦で
言えば2月8日に、大宰府政庁と
管内諸国の、お役人さん32名を集めて
旅人さんの屋敷で開かれた。


この時代、徒歩、馬、舟、いずれも不便。


管内諸国の、近めの32名、又は
政庁内のお役人さん32名。か


それとも、この32名は、旅人さんが
赴任した時に都から、つれてきた
お公家さんかも。


そうであれば、歌は名人。


万葉集を知らない爺の、たわごとだろう。


728年に赴任、2年後の730年に
大納言になり、都に栄転。


「梅花の宴」は、栄転祝いの送別会。


この時の歌、出来立ての32首を
大事に持ち帰り、帰朝報告にした。


報告書として保存された。
後に、万葉集に即、採用された。


32名の内、何名かは連れて帰った。か
憶測であるが、会社の人事と同じようだ。


この32名の中に、山上憶良さんがいる。
そう、和歌の名人。


銀(しろがね)も金(くがね)も玉も
まされる宝、子に如(し)かめやも。


子供にまさる宝はない、と歌った。
「子供は地域の宝」はここからきている。
日本の将来を、見据えている。


憶良さんは、遣唐使になり中国に
留学している。


中国通で筑前の守(現在の福岡)は
適材だった。


6年間駐在した内の、2年間は旅人さんが
上司だった。


中国の書家、王羲之のことは知り
尽くしている。


当然、有名な「蘭亭集序」を消化して
「梅花の宴」をプロデュースした。


見事な日本流になっていた。


「梅花の歌32首、あわせて序」は
憶良さんの演出作品で、栄転祝いとして
都に持ち帰らせた。


「蘭亭集序」には、「曲水の宴」の
くだりがある。


ここから「梅花の宴」が始まりとすれば
天満宮さんの「曲水の宴」=「梅花の宴」
になるね。


前回のブログでの、170年の隔たりを
見事にクリヤした。


爺の推理力は、まんざらじゃあないと
悦に入っているよ。


家人「まぐれ、又は、強引なこじつけ」


私「あんたが、習字を習っているときに
王羲之の蘭亭書からの漢詩
書いていたなあ」
家人「習字の神様の一人、字が難しかったよ」


私「続けてもらって、習字の先生になって
もらいたかったね。私は左団扇で
暮らせたがねえ」


家人「先生になるまでが大変、家が半分
なくなっているさ」


ところで、大友の家持さんは、旅人さんの
息子だ。
親父の転勤に、ついてきているようだ。


この人の歌に、カササギが出てくる。
大宰府あたりにも、この鳥が飛んでいた。


それで、歌が生まれた。
カササギの渡らせる橋に置く霜の白きを
見れば夜ぞ更けにける


太閤秀吉時代に、勝ちガラスとして
持ち込まれた。
この話は、フェイクのようだ。

家人「人になついて、可愛いから
愛されていた」
私「平安の時代から、愛されてきた鳥だ
大事にしたいね」


「令和」と言う、新年号のおかげで
大友の旅人さんや、山の上憶良さんの
ことを知った。
都府楼跡の大宰府政庁と太宰府天満宮
知った。
間違いが、多いが楽しかった。


78才の爺、歴史の手習いだ。
楽しみが一つ増えたよ。

 

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