御年78才夫婦の暮らしは面白いに決まっちょる。

暮らしのこと,花や庭木,感じたこと,雑文ブログ。

「令和」生まれた所は、都府楼跡。

久留米じいじです。


都府楼跡は、大宰府政庁の跡地。


梅花の宴は、ここより少し離れたところ。


相変わらず「令和」を持ち出して
ブログを書こうとしている(せこい?)


先日のニュースでは、大宰府に行く私鉄の
乗客が10%増えた。とあった。


「令和」が大宰府天満宮に人を集めた。
嬉しい、大いなる喜びである。


しかし大宰府は、天満宮さんだけでない。


そのころ、地方に都があったことを
知ってもらいたい。


なにしろ、府と言う言葉がついている。


大阪府京都府のように、当時の
大都会として、府と称している。


さらに、太宰と言う職名が、現在の
大臣か、それ以上の役職名がついている。


太宰のおわせる都、で大宰府


この場所があったから、大友旅人さんも
山上憶良さんも、菅原道真さんもあった。


菅原道真さんは生きていたので、当時は
天満宮の存在はなかった。


京の朝廷から、とうの都と呼ばれている。


簡単には行けない、だがみてみたい。
好奇心が、ありありだねえ。


お役人だったら、出世コースかも。


この、都府楼跡地、大宰府政庁跡からの
広範囲の、歴史がわかる場所になって
もらいたいね。


私「白村江の戦いは、ご存知ですか」
家人「百済に、応援に行って負けた」


私「よくご存じで、ここが怪しい」
家人「またもや、講談師かえ」


663年、白村江の戦い
百済倭国高句麗+唐軍の
全面戦争になった。


倭国の援軍。


661年、第1次援軍
1万余人、舟170余隻。


663年、第2次援軍
2万7千余人。


第3次援軍、1万余人。


白村江に集結、1000余隻で戦う。
400余隻炎上、負け戦。


各地を転戦中の倭国軍と亡命希望の
百済遺民を載せ帰国。


667年、倭国の捕虜を筑紫督府に
送ったとある。


招集した人数は、どこから集めたのか。
年数は、かかっているが、合計5万人弱。


1村から100人集めて、100村。
2年目は、270人で100村。
3年目は、100人で100村。


九州と中国の100村から集めた。
妥当なところか。


一つの舟で、約60人。
1万人で170隻。


2万7千人で450隻。


1万人で170隻。


援軍で使用した舟は、どこで作った。
造船所と、釘、金具の製鉄所。


この戦い以前にも、たびたび援軍を
出した記録がある。


どれ位の規模かは、不明。
数千から1万人の規模か。
船の数も不明。


たびたびの事であれば、壱岐対馬
中継地は、充実していた。


一足飛びの船旅は、むづかしいが
この間の2つの中継地があれば
航海の距離は短い。


送り出しの集積地は、那の津
現在の福岡市。


3年間で約5万人送り出した。
舟は約1000隻作った。


この数字から見ると、相当な都市だ。


現在でも、50~70人乗り舟を
1000隻作り、準備して送り出す。
大仕事になる。


たとえ、3年がかりであっても。
これを、指揮したのは、どこだろう。


福岡の平和台野球場跡に、鴻臚館があり
海外交流と、国防の拠点の記録がある。


ここの、筑紫の守が、大宰府政庁以前の
役所機能で、援軍送り出しの指揮をした。


ここでも、多数の陰陽師の組織があった。
占いによる、航海の日取り、安全の祈願。

当然、敗戦のことも、ここで知り得た。


如何に、防衛するか陰陽師も必死で
占った。


唐軍+高句麗の軍が、倭国那の津まで
進出することを予測した。


防衛の第1線は、那の津の浜沿いに
防塁を作った。

 

敗戦の帰還兵を働かせた。


有効利用だ。


664年に筑紫の行政機能を大宰府
移した。


京の都や、奈良に都に比べると規模は
小さいが、遷都と考えられる。

引っ越しに伴う一直線の道路を作り
その後は、軍事道路として活用した。


作業は、帰還兵、作る技術は百済の遺民。
計画は、陰陽師

平城京のように、正確な区割りをした
大宰府政庁が誕生した。


この作業にも、帰還兵と百済の遺民が
従事した。


大宰府那の津の間に、水城と言う巨大な
堤防がある。


堤防の脇に掘割を作って、水をためていた。


お城のまわりに、守りのための池を作る。
これの、発端となるものだ。


これが、防御の第2線、これで大宰府
まもる。


この構築にも、多数の人を要したが
人的資源は、敗戦で恵まれた。

陰陽師の活躍と、敗戦の兵と、百済
遺民で、強固な防衛線が出来上がった。


戦には負けたが、都市と防衛線作りに
大きな効果があった。


私「これでどうだね、陰陽師の存在は」


家人「だよね、大きく見る知恵者か
それが、陰陽師か」

私「歴史上に名前はないが、きっと
存在したよ」


家人「名前までわからないと、まだ
講談師のレベルだね」


後年、蒙古の襲来で第一戦の防塁が
役に立った。


陰陽師、大手柄だ。


次回は、陰陽師の名前探しをするかなあ。



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