老老夫婦の暮らしは、面白いに決まっちょる。

暮らしのこと,花や庭木,感じたこと,雑文ブログ。

「梅花の宴」菅原の道真さんは、学問の神様になった。

久留米じいじです。


私「恨み祟りの神様が、どうして学問の
神様になったのかなあ」


家人「私は頭が悪かったから
知りませんねえ」


私「あんたこそ、参らんと
いかんかったんだ」


地元の喜びは、大きい。
昨日の地方紙は「令和」に関する記事が
3件あった。


更に、本日も記事があり、大友旅人邸跡は
3つの場所が、考えられると書いてある。


私「旅人さんの屋敷のことは、私のほうが
先に書いたぞ」


家人「あんたが発見者じゃないからね
先に書いた、と威張れないよ」


清涼殿落雷の事件以来、道真さんは
陰陽師の活躍で、祟りの主になった。


これを、鎮めるために祀りの場を作った。


落雷を雷神の怒りとし、その怒りは
道真さんの、怒りと恨みに合体させた。


これは、陰陽師の策略。


お亡くなった、大宰府天満宮を立てた。
このことについては、大宰府政庁も
頑張った。


予算を多くとり、立派なものを作る。
行政の、箱ものつくりの原点。


都から遠い、お慰めが出来ない。
祟りは収まらない。


そのころ、火の神様、雷の神様は
全国に無数あった。


北野にあった社を、道真さんの
天神様として、北野天満宮を建立した。


近い、いつでもお慰めが出来る。


これ以降、道真さんが生まれた「桑原」
には雷が、落ちないことになる。


「くわばら、くわばら」ととなえると
落雷を避けられることが、全国的な
呪文にまでなった。


これも、陰陽師が作ったものだろう。


年配の方は、お年寄りが雷が鳴りだすと
蚊帳をはりそこで「くわばら、くわばら」
と言っていたことを、ご存知かもね。


平安時代には、雷様のほかに夜の暗闇が
恐れられた。


特に、女性は恐れ、おののいた。


ここでも、陰陽師が活躍した。


女性の歌った歌を持って行き、男性に
紹介する。
そう、仲を取り持った。


陰陽師だと、都合が良い、双方を占い
その結果で、結びつけた。


宮中の祭事だけでは、収入が少ない。


これが、現代の仲人として残った。


万葉の歌には、朝帰りの歌もある。


鎌倉の時代になると、恨んだことが
美化される。


冤罪を晴らした神、正直な道真さんに
変化した。


時代を得て、評価が変わるのは世の常。


この頃から、教わることや、求めることが
盛んになる。


武士は、死ぬことが楽になるように
信心を始める。


庶民も生活の苦しさから、逃れたくて
信仰する。


お寺に行き、お坊さんの講話を聴く
ようになった。


江戸時代になると、寺小屋制ができた。
子供たちに、読み、書き、礼儀作法を
教えるところになった。


当初は、お坊さんが教えた、世間に広がり
浪人も教えた。


難しい話になると、天満宮で祈れと逃げの
手を打った。


学の浅い親たちは信じた。
親は子を連れて、まいるようになった。


わらべ歌に「通りゃんせ」と言う歌がある。


通りゃんせ、通りゃんせ
ここは、どこの細道だ
天神様の細道じゃ
この子の7つのお祝いに
お札を納めにまいります
行きは良い良い、帰りは恐い
どうぞ通して、下さいな


この子の7つのお祝いに、お札を
おさめると歌う。


無事に育ち7才になりました。
お礼である。


歌の終わりは、帰りは怖い
通さないとある。


7才以降も、神のお守りをいただかないと
天神様の怒りをかうの、警告まで
出している。


だから、子供が何かしでかすと
天神様の罰が、当たったという。


「この罰当たりが」と言う言葉が今も
生きている。


これで、当時の子供たちは
おとなしくなった。


ものの本には、寺小屋が出来て
勉強したから
おとなしくなった、と書いてある。


この時点で、学問の神様が定着した。


私「どうかね、陰陽師の補強は出来たし
学問の神様まで、行きついたよ」


家人「講談師、見てきたような嘘を言う」
私「講談師か、好男子にしてもらいたい」


ランキングに挑戦中です。
クリックをよろしくお願いします。 

にほんブログ村 シニア日記ブログ 70歳代へ
にほんブログ村